またまたお久しぶりであります。いや~なかなかオリジナルのコンテンツというのも難しいもので…と言い訳してはいけないことはわかっておりますがね。まあこのコーナーは、なんとか間をあけてでも地道に続けていきたいと考えております。
今回のテーマはこれまでの少々ノーテンキな気分で書いていた(?)ものに比べると、少々重いものになるかと思いますが、それでも例えばこの話が皆さんの生活の中で、何かの事象に置き換えられ、自分で行動を起こすきっかけになるようなことになれば嬉しいな、という思いがあります。テーマは「知らないうちに制限されていないか?と思うこと」であります。
1)「表現の自由」の権利、「音楽を楽しむ」権利の危機
これは、以前当コラムでも紹介させていただいたシンガー・ソングライターの、のぶよしじゅんこさんのお話。とあるライブハウスで自身が作った楽曲の演奏を試みるも、ライブハウスとJASRACとの間に以前訴訟の問題があり演奏権を管理するJASRAC的にはこれを容認できないということに。
なので、ライブハウス側の申請を行わず、のぶよしじゅんこさん個人で「このライブハウスで自分の楽曲を演奏する」という申請を行ったところ、これが却下されたということに対しての訴訟になります。記事のとおり、この訴訟はじゅんこさんら原告側の敗訴となりましたが、9月に控訴を実施し、訴訟は現在も続いている状態にあります。
原告側と被告側それぞれの言い分に対して、以降どのような判決に持っていかれるのかは注目すべきところでありますが、気になったのはこの告訴に対する人々の反応でした。
具体的にどれくらいの人がそう思われているのか、その傾向の分析は行っていませんが、記事にコメントされた内容として気になったのは「敢えてそのライブハウスでプレーすることにこだわらなければいいじゃない」という意見でした。
ライブを行うという場合において、「どんなライブハウスでライブを行うのか」というポイントは、ミュージシャンの方には非常に大きな留意点であります。ハコの大きさや形状、音響なんかはもちろんですが、例えばそのマスターは「どんな客層をターゲットにしているか」なんてポイントもあります。
バリバリのロックバンドしか出ないライブハウスに、いきなりJazzプレーヤーが出ることはないでしょう。逆にJazz専門のライブハウスでいきなりマーシャル全開でギターをかき鳴らしたら、おそらく出禁に(笑)。一方でそういった壁を破るがごとく、敢えてそんなギャップにチャレンジするという選択肢もあるかもしれません。
ある人は自身の音楽のリスナー層を増やしたい、いろんな人に聴いてもらいたいとさまざまな試みもしています。あるいはそういった「いつもとは違うハコでプレーすることで、新しい自分を見つけられた」という人もいるかもしれません。
そんなわけで演奏とライブハウスという関係は、そのミュージシャンがどのような演奏をするかという表現に関わってくるものと言えます。そもそもライブハウスなんてそんなにたくさんあるわけではないですから、プロのミュージシャンとして人気のハコに出演するというだけでも実は多くの苦労があります。
そしてその中で紆余曲折して新しいものをまた創造していくわけです。一審判決の内容を見ると、どちらかというと表面的な判断だけで強引に幕を下ろされたようにも見えるでしょう。
決してJASRACの存在を否定しているわけではありません。むしろその存在があるからこそ多くの音楽関係者がその恩恵を受けていることを考えると、あってしかるべきの存在ともいえます。しかしこの一審の判決にはその存在が儀礼的なもの、形骸的なものとなってしまった感もあります。
一つ考えるところとして、「音楽人のために」存在しているものであるのであれば、もっと歩み寄る余地を持ってほしいという思いもあります。
いろんな事情やしがらみもあるかもしれませんが、音楽家の「表現の自由」の権利や、多くのリスナーの「音楽を楽しむ」の権利を制限しているようでもあります。その意味で現状は健全な方向に進んでいないようにも思え、皆の納得のいく結果に進んでいくことを願うばかりです。
2)「利便性」の裏に隠れた危機
これは先日、ツイッターでとある人のツイートから見つけた記事の一つ。
『最近、音楽関係者の間では「イントロとギターソロのある楽曲は売れない」といわれている。
イントロが長いと、スポティファイに代表される音楽配信サイトの利用者が「ダルい」と他の楽曲にスキップするのだとか。そして、楽曲の途中にギターソロが登場すると、今度は「テンションが下がる」ので他の楽曲にスキップ…。』(記事より抜粋)
「ここで言っている『音楽関係者』って、どういう立場の人よ!?」「大体たくさんの『音楽関係者』が本当にそんなこと言っているの?根拠は?」なんてツッコミどころは置いておいて…
ただ、確かに後半の「イントロが長いと~」という部分は、例えばサブスクリプションサービスのスポティファイなどの仕組みからするとそうなってしまう傾向は出てくるかもしれないとも思えて、これが非常に「音楽の楽しみ」「音楽の表現」を狭めていく懸念があるのではないか、という気がするのであります。
というのも、例えば80年代の音楽なんてむしろ「イントロ」と「ギターソロ」が曲の印象を決定づけていて聴き所だった、といっても過言ではなかったように思います。ギターソロというと「ヘビーメタルやハードロックのものでしょ?」なんて偏見を持つ人もいるかもしれませんが、80年代ニューミュージック歌謡曲、演歌に至るまで、時に「この曲」と挙げるとついギターのメロディーを口ずさんでしまうような人も少なくないようでもあります。
今の音楽は「できるだけ短くしているの?あるいは失くしているの?」というと、実はそんな感じでもないでしょう。では考えられる問題は何かというと、どうも「聴き放題」というサービスによる一つの落とし穴ではないかと。
かつてCDがまだ世に普及していなかった時代は、買ったレコードはとにかくみんな聴き込んでいました。80年代だとシングルは700円ほど、アルバムは2500円~3000円くらいでしたでしょうか。学生は一か月でアルバムを1~2枚買うのがやっとなわけで、手に入れた音源をとにかく大切に、そして意識を集中して聴いていました。
でもそんな時代は今や昔。現在はもっと安い金額でハイクオリティーなデジタルサウンドの音楽がいくらでも聴けてしまうわけです。しかも聴き飛ばし、曲のチェンジもやり放題。
ここでもまたくどく書いてしまいますが…誤解しないでほしいのは、そのサービス自体を非難するつもりはないということです。
かつて高い値段を出さないと得ることができなかった、音楽に触れる機会が明らかに増えたわけですし、人々の生活の中で、音楽に触れる局面もそれだけ多くなった(ただ音楽を聴き込んでいるという時間だけでなく、長い時間を音楽とともに過ごせるようになった)わけで、それは大きな恩恵を受けたことになるでしょう。
ただ、その利便性のあまりに音楽のソフト自体への執着が薄れ、さまざまな表現の面白さを見つける楽しみを失った人も多いのではないかと思うんです。
だったらどうしていくべきなのか?まあこれは難しい問題ですよね。漠然とした考えですが、供給する側が聴いてもらう側の姿勢というものを考え、「どう聴いてもらうのが一番いいのか」なんてことを検討していく必要があるのではないでしょうか。
音楽業界もある意味「飽食の時代」を迎えた現在、「売れそうだ」みたいなコンテンツを垂れ流していくのではなく、本当に求められるものを作る、「どんな人の胸に、どう届いていけばいいものなのか」なんてことをさまざまな局面で見つめながら考えていく必要もあるでしょう。
さあ長々と書いてきましたが、こういった「危機だ」「あれっておかしい」「今まで普通だと思っていたことが、実は変じゃないの?」なんてこと、皆さんも時々気づきません?例えばN〇Kの受信料、ふてぶてしい顔をしながらもちゃんと払っていますが、正直納得できない…しにくいところがあるんですよね(笑:しかるべき機関からの抗議が怖いので、こう書いておきます)。
皆さんも時には「(みんなはそろってああいっているけど)あれっておかしくね?」とか、自分の心に正直に、是非考えてみましょうよ。行動に起こすことは難しくても、まずは心の中でも認識することが大事ですから。
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